言葉は「伝達」だけなのか?

 言葉は「媒体」である以上、つまり記号体系の語彙の中にあるものを選びとっては、なにかを意味しようと必死であり、あるいは、それとの表裏である「精神」は、言葉にならない感情をうちに秘めている。
 しかし、伝言ゲームや記号の組み換えのようなことが続くと、その使用におけるありがたみは薄れ、空疎なものとなっていく。
 かつてヴァルター・ベンヤミンは、そのような、記号の並べ替えだけの言葉の使用を「単なる伝達」としていた。まさに今、そういった状況下にあるよう思える。
 こういったときには、やはり「心のこもった言葉」であったり、「魂が入っている言葉」が必要なのではないか。
 精神の中から、言葉になる感情が発生する、その精神の「鏡」となり湧き上がってくるまさにそのときに、本質的な言葉が感情に乗る瞬間がある。
 

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