【デザインと思想】#2 美学の誕生とその批判――カント『判断力批判』を中心に


 カントによる「美」と「崇高」を対峙させ、新たな概念を提示したシラーの鋭敏な洞察に基づき反省的に対比し、「美」と「崇高」、また周辺の諸概念を、また、「美」は「構想力と悟性との戯れ」であり、「崇高」が構想力と理性との関連としたカントに対し、主観的ではない対象の意志としての「自由」が重要であったシラーという両者の立場を論理的に掘り下げる。シラーの美学において、美は感性的なものと理性的なものとの調和において捉えられ、感性的であり理性的である人間存在が、人間性を美の中に見いだすものであった。しかし、その二つのうちに実現する美においては否定性がつねに孕まれており、それらの単調な調和における美ではなく、より高次元へと向けられる。そもそも悲劇作家であったシラーが「崇高」に対して興味をそそられないわけがなく、また、身体や人間の内面に向き合わなければならなかった。即ち理性と感性以外の概念が必要だったのである。人間の内面性において弁証法的にカントと向き合ったシラーの美学と、それによって明確化したカントの美の本質を浮き彫りにする。

カントの「趣味」における美

 カントにとって「趣味」とは、「美を判断する能力」であり、「趣味判断」とは、「自然美」を基本的な分析対象となされている。このことは、『判断力批判』における「美の分析論」において明らかだ。さらに趣味判断について同書は、「質」、「量」、「関係」、「様相」というテーゼを主張する。まず一つ目の契機は、「趣味とは、ある対象はある表象様式を適意あるいは不適意によって、何らの関心を抱くことなく判定する能力である。そうした適意の対象は美しいといわれる」(V, 221)。次に二つ目の契機は、「概念なしで普遍的に気に入るものは、美しい」(V, 219)。三つ目の契機は、「目的を表象することなしに合目的性が対象において知覚される限り、美とはこの対象の合目的性という形式である」(V,  236)。四つ目の契機は、「概念なしで必然的な適意の対象として認識されるものは、美しい」(V, 240)以上の四つがカントにおける趣味的判断の契機であるが、文中の「なしに」という表現、つまりは「帰結」は同じ意図があり、この排除の連関を介して趣味判断は画定される。さて、上記四つの契機から帰結した美の説明を要約すれば、一つ目は、「無関心」という趣味判断の特徴。二つ目は、美しいものが、美しいと感性的能力により捉えられ、観念的な把握はされないという特徴。三つ目は、「目的なき合目的性」が、趣味判断においては「対象」に認められるという特徴。四つ目は、「共通感」の概念が挙げられ、美しいものには必ず適意をもたらすのは「共通感」であり、これは「私的感情」とは区別されるという特徴がある。

カントにおける美と崇高の相違点

 美と崇高とは、いずれもそれ自体だけで我々に「快い」という点で一致しているし、さらにまた両者の前提する判断は感性的でなければ論理的−規定的判断でもなく、反省的判断である。だから両者に属する適意は、快適な場合の感覚に依存するものではないし、さらに「善」に関する適意は、概念に依存するものでもない。つまり関係と同時に対象の単なる表示行きが表示の能力と結びつく。直感が与えられている場合には、表示の能力(即ち構想力)は悟性概念の能力と結びつくと見なされる。よって美に関する判断は、いずれも個別的判断であり、また両者は快の感情であって対象の認識ではない。しかし主観に対して普遍的妥当性をもつのだ。
 とはいえ両者の間の差異も明白である。『判断力批判』第2章では美と崇高の一致点/相違点が挙げられている。まずは一致点を明記する。
  美と崇高はそれだけで気に入る(もの。
  反省判断を前提とするもの。
  どんな概念か無規定であるが、概念に関係する。
  美の判断も崇高も、単称判断であり、あらゆる主観に関して普遍妥当的なものと告知する判断である。
(何れもV, 244
これらの四つの共通点に続き、両者の相違点をあげている。

  自然美は、限定するものである対象の形式に対して、崇高は無形式な対象においても見出される。
  美は無規定な悟性概念の表現であり、崇高は無規定な理性概念の表現である。
  適意において、美は性質の表象と結びつき、崇高は量の表象と結びつく。
一つ目と三つ目の相違点についてはタイヒェルトの「美の場合の形式や形態は、質的微表として捉えられうるし、崇高の場合の無限定性は、量的規定とかいされうる。したがってカントは、美についての適意は性質の表象と、崇高についての快は量の表象と結びついているというのである」という言説を受け入れる。

  美についての適意を「積極的快」、対して崇高についての適意を「賛嘆や尊敬」を含む「消極的快」とする(V, 245)。これは「合目的性」におけるそれと結びつく。
  自然美(時膣的は自然美)は、その形式において合目的性を伴っている。この合目的
によって、対象はわれわれの判断力にとっていわば前もって規定されているようにみえる(V, 245)

カントによれば、自然の対象が崇高であるのではなく、自然の対象を介して、心性における理性概念である崇高が自覚される。つまり「自然から独立した合目的性」なのである。

シラーにおける美と崇高

 今度はシラーの場合である。シラーにおける「美」とは、カントにおける「美」とは異なる意味を持ち、「美」の中に「崇高」が含まれている。『人間の美的教育について』では、「美」が、狭義の美と崇高にあたる「融解的な美」と「精力的な美」とされている。さらに『人間の美的教育について』においては、経験的な美と理念的な美とが分けられている。
しかしあえて今回はこの議論を無視して論理的な袋小路状態を避ける。シラーの「美」がカントにおけるそれとは異なる一貫性があることを、いわゆる『カリアス書簡』における「現象における自由」という定義を使用し検討していく。

カリアス書簡における自由美

『カリアス書簡』で提示されるシラーの主張は、カントの「主観的」説明様式に対する批判であり、主に「現象としての自由」について書かれている。
 97125日付ケルナー宛書簡において、シラーは美の説明方法を挙げる。
「バークその他は『感性的・主観的』、カントは『主観的・合理的』、バウムガルテン、メンデルスゾーンおよび完全性論者は『合理的・客観的』、そして自分は『感性的・客観的』な説明様式だ。」(NA26,175f.)これにより、カントとシラーの間には、「主観的説明様式」と「客観的説明様式」という差異があることになる。さらにカントは『判断力批判』、「美の分析論」において、「あるものが美しいか否かを判別するためには、われわれは表象を、――悟性とともに――構想力により、主観に、ならびに主観の快・不快の感情に関係づける」(V, 203)と語っている。このような説明を、シラーは「主観的」としたに違いない。それは「美とは現象における自由である」という有名なテーゼによって客観性を証明していくことになる。
 シラーに映るカントが美の概念を全く捉えそこなっている点は、「最高の人間美」よりも純粋な美として、またこれ自体が自由美だと考えている点である。カントは『判断力批判』において、美を「自由美」と「附属美」という二つに分ける。つまり自由美は、趣味判断の対象となる純粋美である、「目的なき合目的性に適ったそれだけで美しいもの」即ち「自然美」のことであり、対して「付属美」は、目的の概念や対象の完全性の概念を前提することによって趣味判断の純粋性を破壊するが故、それからは除外されるべきものである。
 シラーは『カリアス書簡』においてもこのように語る。

なぜなら、もし美が対象の論理的本性を克服するなら、まさにそのために、美は最も輝かしく現れるのだからです。しかも抵抗のないところにどうして克服があるのでしょうか。美はどうして、まったく形式のない素材に形式をあたえることができるでしょうか。少なくとも私の確信にしたがえば、美は形式の形式にほかなりません。そしてひとがその素材とよぶものは、必ず形式を与えられた素材でなければなりません。完全性は素材の形式です。美はこれに対して、この完全性の形式です。したがってこの完全性の美に対する関係は、素材の形式に対する関係です(NA26, 176

つまり、カントの言う形式のない素材に形式をあたえるということは、シラーには不可能であった。カントの「自由美」は対象が何であるべきかという目的概念を前提としない。さらに「自由美」を判断する「趣味判断は、純粋である」(V, 229)と語る。
 つまりこの場合のカントの「自由美」が、シラーによれば「形式のない素材の形式」であり、それに対するシラーは「形式を与えられた素材」と表現した場合の「形式」が完全性を指し、この「完全性の形式」こそが美だとする。つまり、そういった自己目的化した完全なものを「克服する」点において美があるのだ。つまりそこに「自由」があるのだ。



カリアス書簡における崇高

 まず、『カリアス書簡』には、「崇高」についてはほとんど言及されていない。しかし「現象における自由」としての美の概念には、狭義の美や崇高も含まれる。
 カントによる「美」と「崇高」の定義で言えば「美」には「崇高」が含まれる。その論証を下記に列挙する。
93年2月8日付の書簡において、

  論理的な自然判定と目的論的な自然判定
  実践理性による「純粋意志の形式にしたがって自由活動を判定すること」つまり道徳的判定
  「純粋意志の形式にしたがって自由でない活動を判定すること」つまり美的判定
NA26, 182-183f.

三つ目では「ある現象が純粋意志の形式あるいは自由の形式と類似していることが美である」といわれ、「したがって美とは現象における自由に他ならない」と語られる。ここにおける「美」と「実践理性」の関係は、カントのそれとは全く別のものである。
 カントにおいて、「美」は「構想力と悟性との戯れ」として語られ、「崇高」が構想力と理性の関連から説明された。他方、シラーにおいては実践理性と関係付けられた美には崇高が含まれる。シラーの場合は「対象の意志」が重要なのであり、カントの「主観的」説明とは明確に異なる。
 以上のことから、シラーの美と、カントの美の差異、また「現象における自由」、つまりは感性的美的判断の対象としての美であることがわかる。    

カントにおける数学的崇高

 カントにおいては、絶対的に大であるものが崇高と名づけられる。しかし、「大」ということと「或る量をもつ」ということとは異なる。また、「なにか或る物が大である」とただ単にいうことは、何か或るものが「絶対的に大である」というのとは異なる。後者は一切の比較なしにした大である。また、何か或るものが大きいや小さい、ゆうぐらいであるということは、純粋悟性概念ではない。理性概念でもない。それは理性概念とはもともとが認識の概念を持ち合わせていないからだ。

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