日常の旅

通常、旅は日常からの解放、あるいは逃走のような運動として存在し、
そうやって、孤独になることにより、自分自身の内的世界を見つめなおす機会としても、
我々の願望の中にあるわけですが、
わたしは、どうも、日常においても旅をしているように思えてならないのです。
おそらく、引越し魔で、そのうえ一人暮らしが長いからというのがその理由に挙げられるのですが、
それよりも、現実からの抜け穴のようなものが、街の中に沢山あって、それをくぐるとユートピアに到達するような感覚が、確かにある。
その抜け穴は、例えば河川敷だったり、バーだったり、スーパーのベンチだったり。
ある種の吃驚を超えると、時間とは無縁になり、感覚が鋭くなっていく。さまざまな毒が抜けていく。
そして、ほんのり冷たい、皮膚にあたる風を感じながら、いつも写真を撮っている。
脱臼された時間としての写真はその間、絵となる。感性でボタンを押すだけで、自分の絵となってしまう。
写真家にはまったく失礼な話なのですが、そのような、シルクを撫でるような繊細な感覚を保てるという喜びが、重く、ひとりで対峙しなければならない忌々しい現実を遠ざける。
昔撮った写真が最近よく出てくる。記憶の中に存在する場所への哀愁としてのそれらを、ぼうっと眺めては、また雑多な世間へと帰っていく。





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